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本牧神社(旧称・本牧十二天社)は旧来、本牧岬の先端(本牧十二天一番地)に張り出した出島の中に鎮座し、巨古木蒼然たる杜に囲まれ、鳥居の脚元には波濤打ち寄せる風光明媚な鎮守様でありました。
その様子は江戸名所圖絵にも「本牧塙 十二天社」として描かれ、江戸湾を往来する廻船からは航海安全、地元民からは守護神と崇められ、本牧十二天の地に八百年以上も鎮座してあつい信仰を受けていたのです。
しかし、先の大戦の終戦直後の昭和二十一年、この本牧地区は二十三万坪に及ぶ進駐軍の強制接収に遭い、以来、平成五年までの四十七年間、神社は本牧町二丁目に仮遷座を余儀なくされ、多くの氏子共々、苦難の時期を過ごしておりました。
伝記には、建久二年(1192年)、源頼朝公が鎌倉幕府を開くにあたり、鬼門(北東の方角)守護を祈念して平安時代から存せる神殿に六尺×四尺の朱塗厨子を奉納した、とございます。
また、鎌倉将軍維康親王より社領の寄進、中頃、両管領よりも同様に社領寄進。天正年間には徳川家康公の関東ご入国に際し、高十二石免御朱印の下知、以来、徳川十五代将軍より御代々頂戴―とあり、方除け、厄除けにご神徳が顕然として、武家や庶民からあつい信仰を受けてきたのです。
また、別当寺であった多聞院の由緒書によると『弘長三年(1263年)正月元朝、滄波洋々たる海中に炫爛として皎明を発し、一の大日靈女命の像、今の社地の海岸に漂い給いしを郷人恭しく祠宇を建て、本村の総鎮守と奉斎したり。去るほどにいつの頃か僧侶の手により本地垂迹の説を継いで仏説十二天(日天、月天、火天、水天、風天、地天、梵天、毘沙門天、大日財天、閻魔天、帝釈天、羅刹天の十二神)を神前に祀り、本体大日靈女命を深く秘したり(今に古老は当の本体は本殿の背後より拝するものとする風あり)』と記されており、十二天社の呼称のいわれを伝えています。一尺二寸の十二体の天像は、明治初年の神仏分離令によって分けられ、本体の大日靈女貴命を祀って「本牧神社」と改称されました。
米軍の接収解除とともに、返還地域一帯は横浜市による区画整理事業が行われ、当神社の社有地は従前地の本牧十二天一番地ではなく、この本牧和田十九番地に換地されました。
こうして四十七年間、仮遷座を忍ばれていた大神様に氏子崇敬者の浄財を募って建立されたのが現在の神殿であります。
大日靈女貴命は日本書記に天照大神の別名として大日靈女貴神として御名が記されていますが、当神社に於いては古くより大日靈女貴命様の御名で手厚くお祭りされています。
御神徳は日輪を司る万物の神であり、遍く人を照らし導く大神様であります。皇孫、瓊瓊杵尊が天孫降臨の際、皇祖神天照大神は稲穂を授けられ、我が国に稲作文化が定着し繁栄するに至りました。また、天照大神はあらゆる産業の神として様々な産業をお開きになり、今日の我が国の繁栄はまさしく御神徳に他なりません。
わけても社伝によると本牧沖合の大海原から顕現された神であることから大漁満足を始め豊作の神として当地に於いて古くから篤く信仰されています。
また室町時代より連綿と受け継がれる「お馬流し」では氏子をはじめ、崇敬の念を寄せる多くの人々の厄祓いとして現在でも祭祀を厳修していることから、厄年祓い・除災招福・方除け・地相除け・家相除け・心願一切成就の御神徳で平素より多くの参拝者で御社頭は賑わいを見せています。 |
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